本当に死を目前とした心境になった時におこす行動

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些細な事から始まった病院暮らしでしたが、本当に死を覚悟した時に起こす行動をお話ししたいと思います。                                   勿論これはその時の病状からこの執筆を続けられている今が有ることから言えば少し早すぎた決断でしたが。

病状はお話したように4年ほど前から肺気腫を患い、大きな病院などでお見掛けする酸素ボンベを引きずる患者さんをイメージして何時か私もあの様に酸素ボンベを引きずる日が来るのだろうなと考えていました。

しかし、その2年後。新たに間質性肺炎という有り難くない病名を頂き普段だと集まる忘年会が誰もアクションを起こさない暮れ前。                        何故か私もそのまま、その年を終えたいなと毎年みんなが集まる忘年会という名前を借りた同級会を見送りました。                                十数年続いている同級会です。                            そしてそれは、小学生の時からの友達。親友たちも巻き込んだ特定の同級生だけが(中には年も違うし同級生の彼氏というだけで、連れてきた時から私達に完全に溶け込んでいる友達もいる。)集まる忘年会・同級会として十数年続いていた集まりでした。

そしてそれが引き金になり、年金も貰えないまま(その前に還暦は迎えています。)働いていた私ですが、このまま64迄厚生年金を払っていても私が死ぬと妻には何も影響が無く自分が生き残って入れば別ですが、そうでない場合ただ単に消えてしまうのなら働く必要も無いなと思い昨年の春前に仕事を退職した私でした。                        それが私の2年から4年の間に生存率が3分の1迄下がる間質性肺炎に対する答えでした。   このまま少しでも多く、私の子供達や妻の顔を仕事しない間に見て過ごすそんな心境でした。

そして入院になった時、私の心の中で「イヨイヨその日が近づいて来てるのかな?」と感じました。

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2年から4年の早い方で考えると既に1年半経っている訳ですから、そろそろ近いのかなくらいは思いますよね。                                  でも早急にそうなるとかは全然私も思いませんでした。                 点滴の効力を知っている私は、言うなれば点滴信奉論者で早く痛みだけを取ってくれればスグに家に帰りたいとしか考えていませんでした。                     そして点滴を用意され「やっと打ってくれるのか?遅いよなー、まあでもコレで一安心」っと、点滴を受けれました。                              暫くして看護師さんから痛みの具合を聞かれました。「今までに一番痛かった事を思い出して最高に痛いのを10として痛みが無ければ0と考えた時に今、どれだけですか?」っと聞かれ、(ああ、そういえば痛みが全然引いていないな。痛い、コレ痛いよ。)えっと、「相当痛いです、8から9かも知れない。」そう応えると看護師さんが医師に伝えに行きます。そして戻って来て「それでは点滴の中に痛み止めを流し込みますから、又、終わり頃に伺います。」そう言って病室を出る。

「ああっ、そうか。これが有ったんだった。」正に最終兵器とも言える点滴からの痛み止め流し。手術後に痛みが酷いときこれを流してくれるんだった。そうそうこれでぐっすりと眠れるんだった。

暫くして看護師さんが戻って来て、「どうですか?痛みは10段階でどれ位?」と聞かれ「はい、痛みは・・・。えっ。痛い・・・、未だ大分痛い。5から6くらいの痛みが有ります」と答えた。                                      何故未だ痛いんだ?手術後でさえ消える痛みの筈の点滴からの痛み止め直接流し込みなのに・・・。

そして看護師さんが又、医師に指示を仰ぎに行って戻ってくると「連続で同じ痛み止めは使えないから、飲み薬の痛み止めを併用します」と飲む痛め止めを出してくれた。                   その薬を飲んで15分20分程経った頃だろうか?私は自然と眠りに就いていた。

数時間眠りに就いていただろう、私は目が覚めてほぼ痛みが無いのを感じていた。未だ0から1、1から2という体の動かし方で左右されるが痛いと騒ぐほどではない痛みは残るものの緩和されたのは間違いない。

しかし私は全てを悟った(つもりになった。)                          この痛みは手術後の痛みを超えるもの・・・、私が恐れていた間質性肺炎の悪化する症状。急性憎悪とは全く関係ない。息苦しさなど今日も昨日も無いのだから。

つまりこの痛みは、痛くてもいつもやせ我慢できた私の知る痛みでは無い別の事柄・・・それは急性憎悪から悪化して死ぬ方達以外の残り。殆ど肺ガンであろう・・・。

これ程の強い痛みを感じるという事は、相当の進行を受けているという事なのだろう。

その後、医師との面談があった。

この後に私の命の恩人の一人と言えるこの内科の鈴木先生。                     率直に話し、歯に衣を着せぬ医師でざっくばらんにお話しいただいた。          鈴木医師が「私がこのCTに依る撮影を見た所、これは肺ガンであると診断した。しかも相当進行の早い小細胞ガンという癌で有ると見立てた。もう一人のレントゲン科の先生とも話したが彼も又、私の見解と一致している。小細胞ガンで有れば既に他への転移も考えられるし、又、小細胞ガンで有れば例え1月先に手術を組み込んでも開けた時にはそこかしこと増殖していて手術で取り除くことは困難で特にこの病院の施設では治療をする術が無いので転院することをお勧めする。この南多摩病院の系列である医療センターならすぐに手配できるのでそちらの転院で宜しいか?」こう言われたのである。

先にも書いた通り私の想像通りであり、そこで「私もこの痛みは通常の痛みでは無いと思い、肺ガンを予想していて耐えるのが苦痛に感じる程の痛みなので相当進行しているのも予想してました。但し、申し訳ないが医療センターは前に入院した事が有るのですが、どうにも患者の扱い方が私には納得できるもので無かったので出来れば近くでもあるし東海大学医学部付属八王子病院にご紹介頂けると嬉しいのですが」そう応えた。

すると鈴木先生は「ああ、そうですか?良いですよ、私が責任を持って出来るだけ早く東海大学医学部付属八王子病院さんとお繋げしますよ。」そう言ってくれたのである。

そして時間の経過とともに痛み止めを流してくれたり、飲み薬を処方してくれたりして痛みは体位を一定の場所で止めていると痛みがほぼ0、動かなければ0という状態になっていった。

夜である。

私は痛みを感じなくなっていて、ああ痛みが無いならこのままいってもそれも又、一つの選択肢かな?などと考えていた。ぼーとした頭で、考えていた・・・。

そこで思い立った。

真夜中の事 入院して2日目の3月6日、午前2時前くらいのことになる。          私は45年もの間、私と一緒に暮らして来た妻にお礼の言葉をメールで送った。                             そして子供の頃から弟を可愛がってくれた娘、次女にメールを送った。             何故なら次女は小学生の頃、本当に良く息子を理解してくれて私達両親の力にもなってくれるほど弟を可愛がってくれていたから。                         10年前に東京高専を卒業して就職するときに選んだIT企業が千葉で有った事から息子は単身で千葉に就職し、実家にはしょっちゅう戻っていたが長女・次女とは付き合いは勿論あるが前ほどの繋がりはない。                                 だからこそ、小学生の頃の事を思い出させてお姉ちゃんは本当に弟に献身的だったんだよ。また前みたいに戻って来た弟にその頃のエピソードを私が姉に伝え、何かが有った時には弟を頼りにしなさい。っと、伝えた。                              これが死を本当に意識した時におこした行動である。

子供の頃からいつも私を可愛がってくれた2人兄弟の兄、高校生の頃には既に私は兄を尊敬していた。勿論いまも変わらずだ。                            いつも迷惑しかかけていない兄には、そうだな辞世の句でも捧げるかな?                              ついチョット前に、もうお前家に来なくて良いからと喧嘩をした長女にもメールでもう怒ってないよと打たないとな。                               そうだー、同級会開かなかったから会わなくなった友達にも・・・。いや、男だけに弱ってるところ見せたくないしな。                              頭で色々な事柄がよぎっていく、

親友の同級生Kは小学3・4年生で友達になり中3からは親友となって高校生の頃には週に2・3回家に泊まりに来る兄弟みたいな親友だった。同じく親友であったOが死んだ後、一番繋がりが深い。                                      同じく小5から友達になり高校の頃には親友になっていたFは結婚式を挙げてから私達と疎遠になるという誠に頭が賢い(勉強は出来なかったが、工業高校では何故か級長をしていた・・・。)小学生でお母さんを亡くした甘えん坊だった。

小学5年生から遊び、高校は私と唯一、一緒の親友KMは社長の息子で父を若い頃に亡くし父の後を継ぎ現在社長に君臨しているが同級会ではチョッとそりが合わなくてOがいなくなってから始まった親友の忘年会は出ていたが現在の同級会は出ていない。

小学5年の同級生で有り、中学では同じサッカー部中学で既に親友となっていたOとFUの傍らFUは人付き合いが上手く私の兄の信望も厚かったFUは今も同級会で活躍している。味のある男である。

一人一人全員の名前を挙げたいくらい今の同級会は思い入れが有り全員が仲間である。   女子も何人もいる。同級会と親友の忘年会が合併した第一回からいる者、去っていった者。 途中から入り皆と完全に溶け込んでいる者、様々だ。                  でもだからこそ、男の私としては弱っている自分を見せたくないのも事実で、こないだの花見の会もいち早くゴメン欠席とメールをし皆が楽しむのをメールでだけ確認して羨ましがっているだけだ。

この先どういう事になるかなど神のみぞ知るで、私は1日を死ぬまで生きてやる!そう決めた時から1日を平凡に過ごすのが楽しくてしょうがない。                  幸い今のところは障害がないことから、今回も生き延びて1週間無いし10日程で家に帰れるものと思っている。

今現在、4月15日10時をまわったところ今日の午後2時から入院です。

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